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「わかりあえない」から始める組織論:宇田川元一『他者と働く』
「データを示して説明したのに、なぜ相手は動いてくれないのか」——この問いへの答えを、伝え方の改善に求めても行き詰まる。問題は伝え方ではなく、そもそも相手と自分が異なる「物語(ナラティヴ)」の中にいることだ。
宇田川元一の『他者と働く——「わかりあえなさ」から始める組織論』は、この問いの構造を経営学の観点から解く一冊だ。HRアワード2020書籍部門最優秀賞を受賞している。
1. 「ナラティヴ」とは何か
私たちは自分自身の経験と信念に基づいて世界を解釈する。営業には営業の文脈があり、開発には開発の文脈がある。同じデータを見ても、異なる結論を引き出す。この、個人や集団が持つ「物語の枠組み」をナラティヴと本書は呼ぶ。
「なぜあの人は自分の意見を受け入れないのか」と感じるとき、実際には「相手のナラティヴに、自分の主張が入る余地がない」という状態が起きている。データの正確さや論理の整合性は、ナラティヴの違いを超えない。
「わかりあえない」を障害として捉えるのではなく、協働の出発点として捉えることが本書の核心だ。
2. 技術的問題と適応課題の違い
システムのバグはドキュメントと手順で修正できる。しかしチームの関係性の悪化や、部門間の縄張り争いは、同じアプローチでは解決しない。
前者を「技術的問題」、後者を「適応課題」と本書は区別する。適応課題は、人の心や関係性が絡んでいるため、技術的な解決策(新しいツールの導入、ルールの厳格化)を適用しても悪化することすらある。
組織の中で「うまくいかない」と感じる問題の多くは、適応課題なのに技術的問題として扱われている。この誤認が解決策の見当違いを生む。
3. 対話の4ステップ
本書が提示する「対話(ダイアローグ)」は、相手を説得するためのものではない。双方のナラティヴの違いを確認し、そこに「橋を架ける」プロセスだ。
準備: 自分自身のナラティヴを自覚する。自分が何を前提にしているかを棚卸しせずに対話に入ると、相手の言葉を自分のフィルターで歪めて受け取る。
観察: 相手がどういう状況に置かれているかを、判断を保留して見る。「なぜそんな行動をするのか」ではなく「何がそうさせているのか」を問う。
解釈: 観察した内容から、相手のナラティヴを推測する。「相手はこの状況をどう見ているか」「何を守ろうとしているか」を考える。
介入: 自分と相手の間にある溝を踏まえて、小さなアクションを試みる。議論に勝とうとするのではなく、関係性の変化を探る問いかけや行動を選ぶ。
この4ステップは一度で完結しない。観察→解釈→介入を繰り返す中で、少しずつ関係性が変わっていく。
flowchart LR
A["準備\n自分のナラティヴを自覚する"] --> B["観察\n相手の状況を判断保留で見る"]
B --> C["解釈\n相手のナラティヴを推測する"]
C --> D["介入\n小さなアクションを試みる"]
D -->|"繰り返す"| B
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style D fill:#f3e5f5,stroke:#9c27b0
4. 「裁量の範囲でできることをやる」という実践
組織を変えようとして「権限がない」「立場が違う」と感じることがある。本書が示す視点は「組織という実体のないものを変えるのではなく、日々の行いを変える」だ。
自分に許されている範囲は、思っているより広いことが多い。部門横断のミーティングに一人余分な人を呼ぶ。議事録の書き方を変える。ランチを誰かと食べる——こうした小さな介入が、関係性を変え、やがて組織の動きを変えていく。
大きな変革を待つのではなく、手の届く範囲から対話を始める。それが本書の処方箋だ。
5. この本が効く場面
「レビューで筋の通った指摘をしたのに相手が黙り込む」「他部署に何度データを出しても、なぜか話がかみ合わない」——こうした詰まりに直面したとき、私たちはたいてい資料の作り込みや言い回しの改善へ向かう。だが伝え方をいくら磨いても動かないなら、問題は伝達ではなく、相手と自分が別々のナラティヴの中に立っていることにある。
本書はこの状況を「適応課題」として読み替える道具を渡す。読む前は「なぜ通じないのか」と相手の理解力を疑っていたのが、読後は「相手は何を守ろうとしているのか」を先に観察するようになる。向かう先が、説得から関係性の設計へと切り替わる。
6. 向いている人・向いていない人
向いている人
- 「正論」で押しても部下や同僚が動かず、マネジメントに手詰まりを感じているリーダー
- セクショナリズムや部門間の対立の中で、プロジェクトを前に進めたい実務担当者
- 職場に限らず、家族や近しい相手と「わかりあえない」まま関係がこじれている人
向いていない人
- 相手を今すぐ動かす説得話法や定型テクニックを探している人。本書の対話は論破でも忖度でもなく、時間のかかる関係性の構築を指すため、即効性を期待すると徒労感に変わりやすい。
- 対話を拒む強い上下関係の中で、一方的に状況を変えたい人。本書自身、権力が生む溝の前では一方的な介入に限界があると認めている。
7. 「対話」をめぐるよくある誤解
「対話」という言葉は、本書の文脈でしばしば別の意味に取り違えられる。
- 誤解: 対話とは、話し合ってわかりあうこと。本書の対話は「わかりあえなさ」を出発点にする。目指すのは合意や仲直りではなく、異なるナラティヴの溝を観察し、そこに橋を架けることだ。溝が残ったまま関係を動かせる点が、ふつうの話し合いと違う。
- 誤解: とにかく相手に歩み寄れば解決する。ただ相手に合わせるのは、本書が警告する「迎合」や「馴れ合い」に近い。自分のナラティヴを一旦脇に置くことと、自分を消して相手に同調することは別物だ。
- 誤解: 対話は相手を変える技術。対話は相手を説得する武器ではなく、自分を含めた関係性を組み替えるプロセスだ。だからこそ、自分の見方が修正を迫られる痛みも伴う。
8. 読んだ後の最初の一歩
本書は読んで終わる本ではなく、明日の一手を変えるための本だ。次の3つは、権限がなくても始められる。
- 問題を仕分ける: 直近で「なぜ動いてくれないのか」と感じた相手を一人思い浮かべ、それがやり方で解ける技術的問題か、関係性を問い直す必要のある適応課題かを分類する。適応課題なら、ツールやルールの追加をいったん止める。
- 観察を先に置く: 説得を始める前に、その相手が何を負い、何を恐れているかを書き出す。自分のナラティヴを脇に置き、相手から見た「正しさ」を一度定義し直す。
- 小さく試す: 一度で決着させようとしない。対話は新しい関係性を築くプロセスなので、議事録の書き方を変える、会議に一人呼ぶといった裁量の範囲の介入を選び、関係の変化を見て次の一手に反映する。
筆者の体験から
テックリードとしてマネジメント寄りの仕事が増えた頃、隣のチームや業務部門との話し合いで、資料を作り込んでも反応が変わらない時期が続いた。伝え方を見直しても的外れな感触が拭えなかった。
読んだあとは、噛み合わないとき「やり方で直る話か、関係性が食い違っている話か」をまず仕分けるようになった。対話前に自分の前提を書き出す「準備」を挟むだけで聞き方が変わった。隣のチームのリーダーと機能追加の優先順位で平行線が続いていたときも、工数比較の資料を脇に置き相手の様子を観察してみると、以前品質を詰め切れないまま出してトラブルになった経験から「拙速」を避けたがっているとわかった。「品質担保の工程は削らない前提でスケジュールを一緒に考えたい」と持ちかけると、対立ではなく相談として話が進み始めた。
ただし締め切りに追われる現場では悠長に構えていられない場面もあり、関係構築を待つ余裕がないときにどうするかは本の射程の外だと感じている。
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